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DATE: 2006/12/31(日)   CATEGORY: 未分類
年末のご挨拶
十二月三十一日を迎えました。
このブログを始めて、数ヶ月の断絶を経ながらまた書き始めましたが、
どうやらあんまり学生には読んでもらっておらず、むしろ研究者の生活をのぞこうとする人々が読んでいる、という状況のようですね。
まあ、いいのですが。

今回は、最近読んだ本から一、二。
まずは「新韓流」の旗手、姜尚中さんの本です。
ずいぶん新書などで出ています。私は政治学というのがどうも好きではなかったので、知っていても手を出さなかったのですが、あるとき友人から勧められて『政治学入門』(集英社新書)と『愛国の作法』(朝日新聞社新書)を購入しました。
その友人(四十代女性研究者)いわく、姜さんはまともなことを言っている部分が多いうえ、「顔が趣味」だというのです。

顔?

そうえいば、姜さんの最近の本には、表紙か帯に必ず顔写真が載せてありますし、なんと『政治学入門』には直筆サインつきです。ビジュアル系学者、というにはちょっとごつい感じのお顔ですが、学者のなかではもてそうな感じではあります。

そういえば・・・私は近所の書店で女性ファッション誌を一通り立ち読みするのですが、ある雑誌に、男性俳優や作家の「顔」について書いてある記事があって、そのタイトルが「今度は学者」だったんです。もう俳優さんなんかは当たり前すぎるというわけでしょうか。そこで紹介されていたのが姜さんだったのです。知性を兼ね備えた人でなければ出せない味ある顔、などという説明文がついていました。

姜さんは、熊本にいたころ野球選手になろうかと思っていらしたそうで、たしかに身体は立派そうです。お顔も、口元にしわが刻まれているけれど、男性の場合、しわはマイナスではありませんから、知的な顔、として認知されたものと思われます。まあ、ほかの研究者の顔やガタイを考えてみると、あまりぱっとした人はいませんもの。むしろ、顔写真を出さないほうが売れるのでは? と心配する方もいますね。

私も姜さんタイプの顔は嫌いではないので、早速二冊読みましたが、非常にわかりやすかったので、これはビジュアルと内容のやさしさで一般読者をとりこもうとするものであろうと推測しました。これぞ、新韓流なのです、私の言う。

私が覚えている限りでは、研究者が顔を売り物にしたのは(田中優子さんなどをのぞいて、男性では、ということですが)姜さんが初めてではないかと思います。
男性も顔で売る時代なのかもしれません。
なお、作家はすでに顔で売る人がたくさんいます。
これも私の記憶の限りですが、五木寛之さんが三十代後半で直木賞を受賞したとき、かなりその顔で騒がれたことがあったように思います。今でこそ老年の境地に達している五木さんですが、若いときは九州男児的な濃いめの顔で、好きな人は好きだろうと思わせるような感じでした(恥ずかしながら、私も濃いめの顔が好きなので、五木さんのデビュー当時の写真を見ては、「今、この顔でいてくれたらなあ」と嘆息しています)。

こうした、「顔」への興味があって、以前ある編集者に『文豪は顔で読め!』という図版いっぱいの本を書きたいのだけど、と提案したのですが(たとえば、濃いめ顔が好きな人は志賀直哉タイプ、ひげフェチには白秋や漱石、細め好きなら芥川、男は顔ではないというタイプなら梶井基次郎、などと、コースに分けて作品のハイライトを読んでもらうのです)、「遺族がいらっしゃる方は難しいですし、写真を借りるのが大変」といわれあっさり却下されました。それは、そうでしょうねえ。

このブログにも登場する小谷野敦さんは、『一冊の本』で「美人好きは罪悪か?」という連載を始めました(2007・1月号より)。こうした美人とか不美人の論はけっこうあるのに、なぜ美男の論はあまりないのでしょうか? 美人と美男との基準がどうも違うのではないか、というのが小谷野さんのエッセイを読んだ私の感想なのですが、それゆえに美男論は書きにくいのかなあ、と思います。
女性と男性とは権利などの面において「平等」であるべきことはもちろんなのですが、どうやらいろいろなことに対する感じ方の回路が違っているような気がしてなりません。小谷野さんは、ある女性を美人と認定する仕方が男性の場合ある程度まとまった数になる、と指摘されていますが、女性の場合、美男に関していえばそうなるだろうか、ちょっと疑問です。

なお、小説のヒロインの多くが美人に描かれていることに意義はありませんが、たとえば「放浪記」は美人でしょうか? また、遠藤周作の「わたしが・棄てた・女」も美人ではありません(これは男性主人公が見た女性の姿、ではありますが)。「人形の家」のノラはどうだったのか? あまり美人のようには思いませんが、このへん、小谷野さんの連載に期待、です。

『オール読物』新年号で、小池真理子と桐野夏生とが男性をめぐって対談していますが、桐野さんは「猿顔」が好き、などとおっしゃっていて、必ずしも美男がもてるとは限らないことが明らかです。
男性の場合、いくら顔がよくても話がおもしろくなければだめだし、気が付かない人も嫌われます。もちろん、知力、体力、顔力が揃っていればいうことはないと思いますが・・・。

さて、一昨日、「王の男」を見てきました。
一言で言えば、韓国映画はかなりあざといところがある、ということになりましょうか。李朝の旅芸人の話というのはおもしろく、中世日本の語り物や琉球の仮面劇と似たことろがあるようにも思え、よかったのですが、なにしろ、「ここでは笑わせる」「ここでは泣かせる」といった勘所がしっかりと掴まえてあって、それがわかってしまうとややしらけるところもあります。また、時代劇なのですが、私には李朝の時代考証というのがまったくわからないので、どのくらい正確な知識によっているのか不安もありました。
ただ、女形のコンギルを演じたイ・ジュンギという役者さんは見ていて目の保養になるほどきれいでした。私は一重まぶたの男性はちょっと苦手なのですが、彼はかみそりで切ったようなシャープな一重で、それが非常になまめかしいのです。女性でときどきこういった一重まぶたの美貌の人がいますが(昔のシャーロット・ランプリングなんか)、そんな感じでしょうか。
安心して映画を楽しみたい方にはお勧めです。

映画館にはこれからの上映作品のチラシがあって、見ていると「ユメ十夜」というのがありました。十人の監督が漱石の「夢十夜」を映像化するというもので、亡き実相寺さんの名前もあります。これは学生にも見てほしいですね。大学に掲示しようと、チラシを数枚鞄に入れました。
「夢十夜」は好きな作品ですが、苦い思い出があります。
以前、なぜか中世専攻の私に『漱石研究』という雑誌から「夢十夜特集をやるのでどれか一夜選んで執筆してほしい」という依頼をいただきました。当時は近代文学なんかに手を出すのは恐ろしい、と思っていたのですが、一応「第何夜を担当するのですか」と聞くと、なんと、十人に依頼していて、早いもの勝ちで好きな「夜」を取れるのだそうでした。私は思い悩んで第三夜を選んだのですが、先を越されており、あとは書けそうにないので泣く泣くお断りをしたのです。
ところが、『漱石研究』が来てみてびっくり。近代文学専攻以外の人ばかりなので気楽に書いてください、ということだったのに、並んでいる名前はばりばり近代の研究者ばかりではありませんか。みんな、むずかしそうーなことを書いていらっしゃいました。「書かないでよかった。もし書いていたら恥かいてた・・・」と思った次第です。

この年末は、水墨画の勉強を少ししています。ちゃんと作品を見分けられるようになりたいため。仏像と仏画はかなり見分けられるようになりましたので、次は苦手意識のある水墨画にしました。
ミーハーですが、赤瀬川原平・山下裕二両氏の対談による『雪舟応援団』などの本は、私のような素人で、しかも「美術史て権威ばっかりやん」などと言っているひねくれた人にとってはよい入門書です。
今、いちばん関心があるのは、美術史ですね。来年はそうした人々とも接触を図ってみようと思っています。

では、そろそろ日が暮れたようですので、今年はこれにて打ち止め。
31日深夜から1日にかけては、いつも仕事しながらすごします。一種の験担ぎで、これをやると来年も仕事がはかどるように思うのです。
さて、くりこ(猫)にとっておきのてっさを分けてやることにしましょう。

では、来年もよい年になりますように!
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DATE: 2006/12/28(木)   CATEGORY: 未分類
集中講義から帰ってきました
年末になりました。年々、年末だの正月だのが縁遠くなります。
今年はなぜか非常に忙しい年になり、おそらく来年も続きそうなのですが、亡き恩師の稲賀敬二先生が「大学に就職すると、年を追うごとに絶対暇にはならないからね」とおっしゃっていたことが身にしみています。

さて、今年は集中講義を二つ経験しました。八月に九州大学、十二月に広島大学です。二六日に広島大から帰ってきて、一日だけは休もうと思っていましたが、今回はプラセンタ注射のおかげか声が枯れず、最後まで元気でした。
今まで集中講義は何回か行っています。まだ三十代になったばかりのころ、山形大学がなぜか呼んでくださったのを皮切りに、筑波大学、同志社女子短期大学、奈良女子大学、そして今回の二大学、と、そこそこな数になりました。同志社女子短大と奈良女大以外は遠くですので出張することになります。
集中講義はだいたい四日間が設定されており、半期分をその間にこなすため合計15から16コマを連続講義します。朝、9時ころから夕方4時ころまでしゃべりっぱなしが続くと、さすがに三日めあたりから声が枯れ始め、ひどいときは出なくなりますね。今様を歌いすぎて声が出なくなった後白河法皇もかくや、と思える、そんな状態です。そうしたときは当初、焼酎(甲類のアルコールそのものみたいなやつ)でうがいするとまたなんとか出るようになるのですが、最近は「のどなんとか」というスプレーなどが揃っているうえ、コンビニエンスストアで手軽に焼酎が買えるようになりましたので持参することはなくなりました。ブランディーもうがいにはいいのですが、匂いが気になるのであまり使えませんし、うっかりと飲んでしまうこともあるので、まあ、焼酎が無難です。
私が集中講義を引き受けるのは、一つには「頼まれたら断らない」ことを自分に課しているからですが、どうしても時期的な都合があわずお断りした大学もあるのであまり大きな声では言えません。もう一つは、他の大学の学生さんの雰囲気を知ることで自分の授業や研究に刺激がもらえるから、という理由があります。また、集中講義では新ネタをやりますから、それをもとにして書き下ろしを書くことも出来ます。これで無理矢理書いた本はすでに何冊かあります。

旧国立大学に行くことが多かったのですが、学生の気質はすべての大学で異なっており、非常にためになりました。もちろん、一日中立ちっぱなし、しゃべりっぱなしは疲れますが、毎週のルーティーンワークではない一期一会的な授業ですから、気合いが違うのです。これは、勤務校の学生さんには本当に申しわけないことなのですが、最先端の研究と過去の先行研究をちゃんとふまえ、新しい資料と知見を出して、しかもわかりやすくしゃべり、授業が終わったら即、原稿になる、というような授業は正直言って毎週出来るようなものではありません。私のような者であると、週に1コマで精一杯でしょうね。また、勤務校では段階的に学習をさせてゆくことが求められますから、自分の研究をそのまましゃべる、なんてことは難しいのです。その点、集中講義は研究のまとめになってちょうどよいわけです。

また、地方大学へ行くと、迎えてくださる教員方や学生たちの配慮で楽しい時間やおいしいものが食べられるという余得もあります。昼食と夕食には名物が用意されることが多いのですが、集中講義は体力を使いますので通常二人前くらいずつは食べるのですが、だいたい終わってみると1,2キロは体重が減っているものです。しかし、山形の手打ちそば(板そば、といいましたね)やその後無理を言って送ってもらった無選別のさくらんぼの大袋は忘れられませんし、筑波では鰻、九州ではイカや地鶏、広島では海の幸と純米酒など、いったい何しにきたんでしょう、というような状態になりました。
大学によっては、授業が終わると学生や院生がやってきては私を「拉致」し、近所の居酒屋で11時くらいまでしゃべくることもあり、こんなことをしていたら声が枯れるのは当然なのですが、集中講義の教員はいわば「まれびと」なので、歓迎され、また、珍しがられます。それも楽しみの一つですね。
あまり人づきあいをしない私がこんなことをするのも、集中講義が一期一会であるからかもしれません。学生たちに刺激を与えて去ってゆくことが、集中講義の教員の役目でもあるのでしょう。風の又三郎的ですねえ、なんか。
まあ、私も集中のときは「出開帳」などと称していますので、ご本尊として好きなことをしゃべっています。お祭りの一種みたいなものでしょうか。
勤務校の学生にこの祝祭空間を味わってほしい、とは思うのですが、これも正直言って毎週会う学生とはこんなふうな雰囲気にはならないのです。それは、彼らを教育する責任があるということもありますが、卒論までの長いつきあいの中であまりお祭りはいらないだろう、とも思うからです。お祭りよりも、淡々とした日常によって何かをゆっくり学んでほしい、と考えているのです。いいわけがましいですが。

私は以前から、学会発表や講演、そしてこのような特別な講義を頼まれた場合、かばん一つ持って呼ばれたところに行き、仕事をしたらさっと帰ってくる、というような遍歴する職人的な人にあこがれを抱いていたのでした。股旅物や仕事人物(池波正太郎さんの)の読み過ぎだと思います。定着することがよほど性に合わないのかもしれません。大沢在昌さんの「新宿鮫」シリーズの鮫島警部がずっと好きなのも、彼が組織の中にいてもアウトローであり、自分の力で解決しようとする姿がいいのだと思います。男だったら鮫島警部みたいな人になっていた可能性は大です(もちろん、上級国家公務員試験には通らなかったかもしれません)。今でも充分、帰属意識なしに好きなことやってるように見られているようですが・・・。
ただ、最新作の『狼花』には、鮫島警部の前途がなにやら暗く感じられる箇所が多く、アウトローでいることの限界が今後描かれるのかもしれないですね。それにしても、鮫島警部、ずっと35歳でいいなあ・・・。もう、NHKみたいに、舘ひろしでは演じられないですね。

話が飛んでしまいました。
集中講義のいいところとは、教員も学生も「ほかの世界」に触れることが出来るということだと思います。井の中の蛙さんがいっぱいはねている今の大学にとって、風の又三郎的出来事があったほうがいいと強く思います。ところが、じょじょに、こうした集中講義を呼ぶ枠や予算が削られつつあることは残念です。多くの学生たちは、入学した大学の授業しか知らず、ずっとそれがスタンダードだと思いこんで卒業してしまうのでしょう。院生だって同じです。でも、それで「こんなもんか」などと思ってほしくはありません。「書を捨てないで街へでよう」。ああ、最近の学生は寺山修司は知らないんでしたっけね。

話す方も聞く方も、お世話する方もとてもしんどい四日間ではありますが、こうした制度がなくならないことを切に祈ります。
今度はどこが呼んでくださるのでしょうか。あるいは、もうないのでしょうか。大学での仕事と自分の研究で手一杯な私ですが、やっぱり、かばん一つさげて風の中へ出て行く自分に酔いたい気持ちはあるんですよ。そして、職人としての研究者という側面をずっと持っていたいとも思っています。それが、今浮沈しつづけている国文学の世界に何らかにの形で寄与することになれば・・・。お給料もらっている大学に滅私ご奉公したり、権力者に頭下げることより、もっと大きな目で何かを見ていたいと私は思います。

「新韓流」の話がまた延びましたね。これは、実は姜尚中さんのことなんですが、またの機会に。
年末ですが、来年春に出る『検定絶対不合格国語 古文編』(仮)のゲラが来ていますので、明日から仕事を再開します。でも、いちおう冬休みなんだから、映画はぜひ見たい。「王の男」(評価する人とそうでない人に分かれているので、確認のため見たい)と「パプリカ」はなんとか明日、あさってに足を運びたいものです。なんのために映画館に徒歩10分のところに住んでるんや、てなもんで。
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DATE: 2006/12/05(火)   CATEGORY: 未分類
鏡リュウジさんと佐伯順子さん
読んでいる時間なんかないはずなのに、交換ブログ、などということを言ってしまったため、なんとなく読んでいる小谷野敦氏のブログ(実はみんな読んでいるくせに、なーんも言わない。実名を出すのはまずいという親身なご忠告までありました。こういうのは小さな親切というのでしょうか?)に、佐伯順子さんが「オカルト云々」という記述があったので、早速見てみました。
以下URL参照。


http://www.nhk-cul.co.jp/programs/program_455351.html


鏡リュウジさんは、オカルトみたいに見えますが、それは雑誌などで「来年の運勢大予測」なんてやっているからで、実は『ユリイカ』などに寄稿している研究者でもあります(ICUの修士課程を修了されてもいます。学歴は関係ないかもしれないけど)。私は占星術や血液型は信じていないのですが(信じると、蠍座B型の私はいつも「変人」という評価付けばっかりになりますからね。まあ、本当に変なところは多いですが)、
鏡さんは海外の研究をちゃんとフォローしていますし、堅い文章も書ける人です。「オカルト」は小谷野さん独自の冗談だと思いますが、ちょっと鏡さんの弁護をしておきました。

鏡さんとは「新妖怪談義研究会」という会でお目にかかり、いろいろ教えてもらいました。彼はユング派精神分析学に傾いているようで、いわゆる「原型」(アーキタイプ)を信じていますが、私は信じていません。しかし、示唆的な発言は多かったです。
彼は「魔女」という存在を、ヨーロッパ中世・近世(ヨーロッパは16世紀から近代になるのでしたっけ? すみません、そのへん無知で)のものというより、現代の問題としてとらえようとしているようです。今のアメリカのスーパーマーケットで、普通の雑誌に混ざって「魔女」がどうたら、という雑誌が売られていることを報告されているのを聞いたことがあります。
それは遊びの要素が多いムーブメントでもありますが、残りの半分の人々は、現代にも魔女はいる、というふうに言っているらしいのです。
それは、おそらくフェミニズムと関わった言説でしょうし、佐伯さんがお好きな女神信仰とその再評価とも深く結びつくものであるのです。

占星学は、日本ではあまりに俗化しているので一見擬似科学に思えますし、実際、そんな占い師さんも多いのですが、鏡さんは違った見地から占星学をとらえようとしているように見えます。

・・・というふうに、私が鏡さんを弁護するのは、本当は彼が私と同郷の京都市出身者であるからだ、というと、あちこちから罵声が飛んでくることでしょう。身内ぼめ、みたいなものと考えていただいても仕方ありませんね。ある研究会の後、えんえん京都ダイアレクトで話し込んだのですが、方言による意思の疎通というのが、言葉を超えた部分を持っているということを実感して、ちょっとショックでした。共通語使用者にはわからない感覚かもしれません(もちろん、共通語使用者にしかわからないこともあります。同じ事です)。

実際は、ほとんど「203番のバスに出る妙心寺ババア」という都市伝説などについて話し込んでいたのです。すっごくローカルですねえ。

ということで、ちょっと鏡さんについてフォロー発言をしてしまいました。佐伯さんの女神信奉については、ここでは書きません。
また「田中さんがかよわい女のひとをいぢめている」と言われるかもしれませんから・・・。

「新韓流」については後日にします。これは俳優さんのことではありません。
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DATE: 2006/12/04(月)   CATEGORY: 未分類
パワーポイント雑考
>名無しのコメントさん
たしかに、今、マンガ研究は進んでいるようですね。ご教示ありがとうございます。
ただ、おっしゃることがまっとうなので、ぜひお名前かハンドルネームを明記していただきたかったですね。私は小谷野さんと同じく、匿名でのネット発言はおかしい、と考えています。ですから、自分の場合も必ず本名で発言しています。危険は承知ですよ。でも、「物を言う」って常に世界に対して両手をつっぱって自己主張するもんではないでしょうか。そして発言には責任を持つべきではないでしょうか。

さて、今回は最近非常に気になっていたパワーポイント(以後、PPと略称)の授業や講演会における利用についてです。

私がPPを本格的に使い始めたのは遅くて、今年の春くらいからです。授業と講演会で使っています。私の対象分野では、必ずといってよいほど絵巻や絵本などの資料が関わってきますから、それを見せるのにはとてもいいメディアであるし、なんといっても学生たちは「百聞は一見にしかず」派なので、とても便利ではあります。
また、教師としては、PPで画像を解説していると、授業時間が「もつ」という実利的な点もあることを告白しておきましょう。単に文字資料を読んでゆくだけでは、時間がもたないときがありますが、画像があるとそれについていろいろ話しているだけでかなり時間がたちますからね。

ただ、私は単純に画像を並べて見せる、といった技術しかありませんし、それ以上のことはしていません。以前、美術史の研究者の発表を何回か聞いたのですが、PPの使い方が私のようなローテク人間から見ると超絶的でした。たとえば、参詣曼荼羅の空に浮かんでいる月と日がくるくる回ったり、絵本のなかの赤ちゃんが立ち上がったりするんです。もちろん、部分の拡大や「この図像とこの図像が似ていますね」といったことも簡単にして見せます(なぜか、彼らは拡大するとき「よいしょ」と声をかけながら操作していました。不思議ですね)。
私はPPを「電気紙芝居」くらいにしか思っていないので、とにかく画像を見せるためのツールとして稚拙な技巧しか覚えないのですが、美術史の研究者の超絶的技巧を見ていて、ちょっと気になりはじめました。

それは、絵巻や絵本といった画像に手を加えていいのだろうか、ということです。これは、「拡大」などといった、基本的に画像を変えない技術について言っているわけではありません。
たとえば、美しい女性がだんだん腐ってゆく様を描いた「九相図」というのがありますが、九枚のばらばらの絵をつなぎ合わせて「だんだん腐ってゆく様をアニメーションにできる」ということまで出来るらしいのです。しかし、一枚の絵と次の絵をつなぐ図像の変化はいわば勝手に作ってしまうことになりますが、これは果たして「資料」性があるものなのだろうか、と少し不安になりました。
もちろん、画像が動いたりすると見ている方の気を惹きますし、効果は充分でしょう。しかし、資料には手を加えないのが基本だと思います。資料をそのまま見せる(ただ、PPにスライドにした段階において、絵巻の部分を切り取っているわけですから、これも加工ではあるのですが)のが本来の研究でのPPの使い方であると、私などは思ってしまうのですが、どうなのでしょうか?

PPはもともとビジネス用に開発されたソフトですから、アニメーションなどでプレゼンテーション効果を高めることが期待されているのでしょう。しかし、研究という目で見た場合、安易に画像に手を加えることがよいことなのか、私はやや疑問に思います。

また、PPのスライドを作成する場合、私でもインターネット上の画像を切り貼りすることくらいはしますが、この場合、著作権はどうなるのでしょうか?
作りながら、とても心配になります。
というのは、絵巻や国宝、重文、その他の貴重資料を書籍の図版に使う場合、現所蔵者の許可が必要なのは常識です。そして、使用料を要求されることも多々あります(大徳寺真珠庵本百鬼夜行絵巻を使用したときは、一場面10万円といわれましたし、それほど高額でなくても数千円から一万円くらいは払っています)。それが、ネット上に公開された場合、個人的にPPに使っても何も言われないわけです。それは、個人使用という理解のもとに黙認されているのだと思います。
ところが、もしそのスライドをもとにして論文や著書を書いたとき、スライドをそのまま図版にすれば問題でしょう。一部のサイトでは、そうした場合の許可申請をネット上で行える、あるいはその方法を明示していることがありますが、それはまだまだ少数です。

本の図版については長年かなり悩まされてきた私ですので、このようなことを考えてしまうのでしょうが、現実に不法利用としか思えない図版が出回っていることを鑑みると、ネット時代の新しい規範が整備、徹底されるほうがいいのではないかと考えます。

私は著作権については素人で、勉強をしているわけではないので、この問題について今どのような議論がなされているか知らずに書いていますが、もし何かご存じの方がありましたらぜひコメントをお願いいたします。ただし、そのときは必ず記名でお願いします。

次回は、最近こっている「新韓流」と、学生さんにお勧めする本について書くつもりです。
でも、このページ、学生以外の人のほうが読んでいるようですが・・・。

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DATE: 2006/12/01(金)   CATEGORY: 未分類
抗議の電話によりやむなく{記事削除}
 本記事は、まったく面識のない大塚ひかり氏から夜遅くに突然の電話をいただき、記事を削除するよう強く要請されましたので、おっしゃる通りにしました。
 amazonの大塚氏著書についてのレビューも削除を強く求められました。大塚氏は小谷野敦氏から私の自宅電話を聞き、直接電話して抗議するよう勧められたとのことでした。現在の状況においては、個人宅の電話を当人の承諾なしに他人に教えるということが許されるとは思えませんが。
 私はレビュー削除ではなく、書き換えなら行う旨、承諾しましたが、それが大塚氏を全面的に擁護する小谷野氏の逆鱗に触れたようで、ここ数ヶ月、小谷野氏は私の過去の学説に根拠を提示しない異議申し立てをしきりに行うようになりました。また、ブログでも根拠薄弱な私への批判を行っています。
 研究をする人間にとって反論は常に確たる根拠があって行うべきことであり、印象批評では効果がありません。
 しかし、数人の方から、彼らの行動に反応することはかえって彼らを喜ばすに過ぎない、という親身な忠告を受けましたので、本日大塚氏と小谷野氏のレビューを削除しました。
 読者各位におかれましては、良識的なご判断をされるよう期待する次第です。
 なお、彼らが論考のかたちで正統な批判を行ったときには、反証を用意したうえで論考をしたためることがあるかもしれませんが、単なる感情的な「批判らしきもの」に関わることは差し控えたいと思います。
 私はあくまで研究者ですのので、いくら「傲慢な学者」などと言われましても、それで糧を得、社会的役割を果たしているわけですから、研究方法を曲げることは出来ないのです。私怨からは有益な研究は生まれないと思います。
 
                                     二〇〇八年五月六日・記
 
 
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