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DATE: 2007/01/10(水)   CATEGORY: 未分類
料理ができないわけ
・・・などという表題を見た人はきっと、「田中貴子ってやっぱり料理出来ないんだ」と納得することでしょう。「いわゆる`女らしさ`っていうのを否定してるヤツだからね」などという人の陰口も聞こえてくるように思います。

私はいわゆる「女らしい」ことはしませんし、外見もどちらかというと「男顔」で背が高い方ですから、そう見られるのでしょう。普段、ほとんどズボン(今ふうにはパンツ)ははかないし、大学へゆくときは必ず化粧もしているし、関西人らしく派手好みファッションなんですが、「女」という感じがしないといわれることが多いです。
前に勤めていた大学では、なぜかいわゆる「オタク」と呼ばれる男子学生たちに好かれていて、休み時間には数人のきわめつけの「オタク青年」が研究室を訪ねて来ていました。彼らに「なんでうちに来るの?」と聞くと、「先生って、女くさいないもん」との返答あり。「服も、女装しているみたいだもん」ともいわれました。「女は二次元がフィギアがいい」と公言してはばからない「オタク」くんたちにとって、私は中性みたいな存在だったようです。
もし音痴でなかったら、宝塚歌劇団を受験して男役やったらよかったかも知れない、などとも思います。あー、あつかまし。
ちなみに、私が「自分と正反対の`女っぽい`人だなあ」と思うのは、たとえば川柳作家のやすみりえさんなんか。彼女とは数回お仕事しましたが、「自分が男だったらこういう人に惚れるかも知れない」と感じた人でした。人間は自分にないものを求めるもんですね。

さて、話が飛んでしまいました。
料理のことです。

私はここ4年ばかりいっさい自炊をしていません。それには理由はあるのです。
その前に、ちょっと自慢。
それ以前は、一人暮らしが長いのでかなり料理をしていました。「たん熊」という京都の料亭がやっている「おせち料理講座」に行って、お節一式作ったこともありますし、鯛やシャケだっておろせますよ。大学生の頃、檀一雄の『檀流クッキング』を見つけて、載っているお料理はほぼつくりましたし、伊丹十三さんの『フランス料理を私と』のレシピも全部作りました(エクルヴィスやカエルはさすがに錦市場でも売ってなかったので、ほかのもので代用しましたが。なお、伊丹さんの本は私の愛読書の棚にすべて並んでいます)。愛用の包丁は「関の孫六」という銘が入っていて、これは三島由紀夫が自決したとき使った刀と同じ銘なので買いました。夜、論文につまると砥石を出してきて包丁をとぐのが非常にいい気分転換になり、「関の孫六」はかなり減っています。

自慢はもういい? 私はお裁縫も洗濯も掃除もまったくへたくそですが、料理だけは出来たんです。信じてね。
しかし、4年前のある出来事で包丁を「捨て」ました。

当時、牛肉の「狂牛病」問題が世の中を騒がせていて、小売りの牛肉には「個体識別番号」というものが付けられ、どこで飼育された牛かが記されるようになったのです。ニュースでそういうことを聞いていただけではほとんど何も思わなかったのですが、ある時、あまりに面倒くさいので夕食にはお肉をステーキにしようと、デパートの地下でサーロインステーキ用のお肉を買ってきました。一枚ずつラップで包まれていて、店員さんはそれを包んでくれました。
帰宅してフライパンを温め、冷蔵庫からお肉を取り出して、ラップをはずそうとお肉を裏返したところ・・・。
そこに「牛の個体識別番号×××××」と印字されたシールがあったのです。
私は、それを見た次の瞬間、お肉を取り落としていました。そして、機械的にゴミ箱へ捨てていました。
「個体識別」されているということは、その牛に「名前」がつけられているのと同じことのように思えたのです。名前のある牛を食べることはどうしても出来ませんでした。
よく、牛肉で有名なお店では、牛の生前の写真や血統書を見せて肉を供するところがあると聞きますが、「雪号」とか「但馬姫」などと名付けられた牛の肉を、何も思わずに食べることが出来る人がいることに改めて驚愕しました。
それ以来、私は料理することを一切やめました。

よくわかっています。そんなきれいごとを言ってもどうせ誰かが調理したお肉は食べるのだろう、完全なベジタリアンになったわけではないだろう。
今でもお肉は嫌いではありませんし、魚も野菜も食べています。自分の手を汚さないようなふりをしている偽善者です。今の世の中、どんなに「殺生」せずに生きようとしても絶対に無理だと思います。ヴェジタリアンだって野菜を「殺して」います。お薬だって飲むでしょうが、たとえば風邪薬には牛の内臓が使われていることを知るヴェジタリアンはあまり多くないと思います。
でも、あれ以来、どうしても料理が出来なくなったのです。平気でさばいていた海老や蟹、魚もさばくことが出来ません。生きた海老をゆでるとき、お湯のなかでさらに身体を曲げる姿を正視できなくなりましたし、魚の首をはねるときの肉の抵抗を思い出すだけで気分が悪くなります。
生き物の命をもらって人は生きることが出来るのだから、すべてをむだなく利用させてもらうことが生き物への供養になると、それまでは考えていました。ところが、そんなことが言えるのは自分が動物を「利用」する人間という立場にいるからだ、と思うようになりました。人間がたまたま世の中を牛耳っているからそんなふうに言えるだけで、「利用」されている動物にとってみれば大切な命を縁もゆかりもない人間に容赦なくとられてしまっているわけです。それが、とつぜん、非常に辛くなってしまいました。
極端な話ですが、もし人間の代わりに猫がこの世を牛耳る世界であったなら、人間は猫の食物や労働力として「利用」されても何も文句はいえないはずです。

どうして人間がそんなに偉いのだろうか。人間の知能が高いとか「人権」があるとか、本当のことなのだろうか。赤ん坊が虐待されて殺されたら大きな問題にするくせに、毎日多くの動物、昆虫、植物などが無為に殺されています。食物連鎖による捕食というのならわかりますが、人間の都合だけで命がどんどん失われているのが、辛いのです。
私は今、蚊に血を吸われてもそれをたたきつぶすことをしなくなりました。
単なる感傷であるかも知れません。
そう思う人は、そう思えばいいのです。
酒池肉林して何が悪いねん、という人のことを否定するものではありません。

ただ、このような理由で料理をしなくなってから、ときどきこんなことを思います。
中世の遁世者が出家や遁世をした理由に「殺生」がある、という説話が大変多いのは、やはり理由があるのだな、と。
「殺生」しなければ生きて行けない人間である自分、というものを認識するのは、しんどいことではないでしょうか。しかし、それを引き受けて生きることを、みんなしなくてはなりません。生きてゆくという「行為」が自分だけのことではないのだという実感を少し味わったというだけ、貴重な体験であったと思います。

ただ、だんだん人間が嫌いになりますけどね(個人ではなく、「人間」という存在そのものが、という意味ですが)。

お正月に心に残った本の一冊に、南直哉師(曹洞宗の僧侶)の『語る禅僧』(朝日新聞社)があります。南師は論客として知られる僧侶ですが、この一冊には非常に共感しました。
生きることに悩んだ人はよく出家しますが、南師の場合はちょっと違います。出家とは逃避でもなんでもない、積極的な生き方であることがわかります。
かといって、私が出家することはないでしょうけどね。仏教は好きですが(というより、仏教の資料が好き、というべきか?)、特定の宗教を信仰することが出来ないのです。宗教は私にとって「信じるもの」ではなく「研究の対象としてその裏側やメカニズムを解析するもの」なので。
でも、万が一出家しなければならなくなったら(どんな場合だ)、天台宗を選ぶと思います。だって、お寺の秘密の資料を見られる可能性が高いでしょう・・・。ああ、なまぐさいこと。

今日もまた、暖かい家のなかでお肉や魚を食べ、泡の出る般若湯を飲み、ペルシャ猫をなでています。
こんな人間が何言っても説得力ないですね、つくづく。
一度慣れてしまった環境を変える勇気はまだありません。

忙しいはずなのに、帰りの電車の中でいろいろ考え事をしていたら、急に書きたくなったのでついつい。
やっと初校を送ったのでやや時間が出来ました。
しかし、
二月末締め切りの『文学』の原稿の調べものもしなければなりません。
どうして私に森鴎外の注文が来るのだろう・・・。商売繁盛で笹持って来い、という感じ。果たして鴎外について新しいことが書けるのでしょうか? 森茉莉のほうがまだ書けると思うのだけど。またまたはらはらどきどきの毎日になりそうです。
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