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DATE: 2006/04/03(月)   CATEGORY: 未分類
2006年フランスへの旅(中篇)
お骨との対面を果たして満足した私の、稚拙なフランス日記、第二弾です。フランスへ行き慣れていらっしゃる方から見るとあほらしく思われるでしょうし、西欧文化を専門に研究されている方は、日本のことしかわからない者がなにを「研究」するのだとお笑いになると思うのですが、これだけは大きな声でいえます。

いくつになっても勉強はできる!

さて、お骨に話しを戻しましょう。
骨、とか、骸骨というと、近年若い人たちを中心にファッションの分野ではやりのモチーフとなっていることはすでにご存じでしょう。最初はおそらくパンクファッションの分野から「あえて不気味なものをモチーフとすることにより体制への反発と脱構築をもくろむ」といった趣旨で行われてきたと思われるのですが、ここ数年、そんなこと考えてない人たちに、単なるファッションアイコンとして髑髏さんは人気です。
かくいう私も、七、八年前でしょうか。クリスチャン・ディオールの「吸血鬼の花嫁」というシリーズで出されていた髑髏の指輪を手に入れ、得々としてはめていたことがあります(これはプラチナ製で歯列にダイアモンドがはめ込まれていました)。
西欧社会における髑髏イメージといえば、日本人にとって、海賊の旗がもっともポピュラーではないでしょうか。他には、危険物を示すマークもあります。この海賊の旗はそんなに古いものではないらしいというのですが、十五世紀にダンス・マカーブル(死の舞踏、骸骨が踊り狂っている絵や彫刻です)が盛行したことを考慮すれば、髑髏や骸骨が明らかに「死」の不吉なイメージの表象とされてきたことがわかります(このへんのことは、前回にもお名前を出した小池寿子氏や、若桑みどり氏の『薔薇のイコノロジー』などを参照のこと)。
日本でも確かに骸骨は即、死体を意味していたと思われます。六道絵や餓鬼草子に描かれた墓場の死体に白骨と化したものがしばしば見られる通りです。また、これは伝承にすぎませんが、一休さんが髑髏を杖につけて歩いたとか、「一休骸骨」なる戯画を描いた、などということも、「死」を濃厚に意識させる骸骨の使われ方でしょう。
しかし、日本では(これは単なる推測にすぎませんが)白骨と化した骸骨はむしろ清浄なもの、あるいはばらばらになったものは成仏したあかしとしてとらえられる場合があり、西欧の不浄感漂う不吉な骸骨とは異なっているように思えてなりません。
私は高校生のころ、沖縄独特の葬送儀礼である「洗骨」の詳細を聞いて非常にショックを受けたことがあります。ご存じでしょうが、洗骨とはほとんど風葬のようにしておいた遺体を数年後に取り出し、お骨を海水で清めることです。気持ち悪くないのか、と沖縄人に聞きますと、親族のものだからなんにも気持ち悪くない、との答えが返ってきました。白骨になれば清められるのかなあ、と今では思っています。

さて、前置きが長くなりました。今回はスペインの聖地であるサンチャゴ・デ・コンポステーラへの巡礼道の出発地・ヴェズレー訪問の道中記です。

十五日。
朝早起きしてベルシー駅へ向かう。危ないところだった。なぜかというと、パリ市内から出るフランス国鉄の地方線はいくつもの違った駅が始発になっており、私が向かうディジョン方面はリヨン駅発がふつうなのである。事前にトーマス・クックの時刻表と、インターネットで調べておいたのだが、確かに目指すセルミゼーユ駅方面行きの普通列車は朝七時十分リヨン駅発になっていた。ところが、昨晩ふと時刻表を見てみると、リヨン駅発時刻の横に「b」という小さな文字を見つけた。不審に思ってよくよく欄外を見ると、この列車だけはリヨン駅の隣のベルシー駅発なのであった。これを逃すと日帰りでヴェズレーへは行けない。
パリからの日帰り「お骨ツアー」をヴェズレーにしたのには訳がある。フランスの聖遺物といえばコンクのサン・フォアの頭蓋骨を入れたといわれるキンキラの像が有名なので、最初はそこに行こうかと思っていたのだが、この像はたくさんの図録に載っているし、実際にお骨が見られるわけではないので、いろいろ探しているうち、ヴェズレーにサン・マリ・マデレーヌの骨のかけらがあるとの情報を得たのである。
ヴェズレーという中世都市は、ロマネスク期にマリ・マデレーヌ、すなわち『ダヴィンチ・コード』で人口に膾炙したマグダラのマリアのご遺体がある、といわれてにぎわったところである。12世紀前期建立の寺院もある。ここは先に述べたように、サンチャゴ巡礼の始発点の一つでもあった。その相乗効果で12世紀まではかなりにぎわったらしいが、マグダラのマリアの遺体は本当はプロバンスの方にある、という噂が流れ、あっという間に凋落した街なのである。
ダヴィンチ・コード人気に乗っかって作られたテレビ番組には、荒俣宏氏がマグダラのマリアの頭蓋骨と称するお骨を前にしているものなどがあったが、マグダラのマリアの遺骨といわれているものはかなりの数に上るらしい。もちろん、実在の人物であるかどうかまったく不明なのだから、お骨じたい非常に怪しいのだが、信仰者にとって本物かどうかは別問題なのだろう。
私がお骨を実見することにこだわっているのも、中世の「奇跡」を信じた人々が、(本当はきたない、どこの誰のものともわからない)骨を前にしたとき、どんな感じを受けたのかなあ、という好奇心によるものだ。現代人の私が見ても何も感じないかもしれないが、やはり見てみないことにはわからない。
ヴェズレーは六月に大きなお祭りがあるということで、ホテルやレストランはそこそこある街であるが、何しろ人口490人という規模である。この寒い季節はずれの三月に観光客などほとんど来ないことだろう。フランスのベストシーズンは五、六月だと鹿島茂氏は言うが、この時期に海外に出られるような暇な大学教員はいないはずである。
実際に遺骨はないかもしれないが、私は実はパリ近郊を離れたことがないので一度「地方」に行ってみたかったこともあり、時刻表をにらんで日帰り可能なヴェズレーに決めたのだった。

本当はTGVに乗りたかったのだが(鉄道に詳しい原武史氏に言わせると鉄道マニアに女性はいないらしいが、私は時刻表を読むのが趣味でもある)、あいにくヴェズレーに一番近い駅には普通列車しか止まらない。セルミゼーユ駅というところで降りて、後はタクシーを使う。タクシーは前日、ホテルのフロントで予約してもらった。このへんは、木俣元一氏の『フランス ロマネスクを巡る旅』(新潮社、二〇〇四年)が大変役に立った。タクシーに乗るときのフランス語会話がついている。
フランス国鉄はええかげん、と聞いていたが、乗ってみると車両はきれいだし、いちおうアナウンスはあるし、安心していたところ、途中でいきなり20分停車した。アクシダン、という単語がわずかに聞き取れる。おかげで、セルミゼーユ駅には20分遅れで到着。駅、といっても見事に何もない田舎駅であり、もちろんタクシーの影も形もない。
しかたないのでタクシー会社に電話してみようと頭の中で仏作文していると、タクシー登場。あんたかて遅れてるやんか。
ところがこの運転手さん、まったく英語が通じない。私は「旅行者のためのフランス語会話」などを思い出して「これから寺院に行って、これこれの時刻に迎えにきてください」と言うと、何とか通じた。しかし、私は数字がよく聞き取れないので、このへんは筆談。
こういうと、いかにも私がぺらぺらフランス語をしゃべっているように思われるかもしれないが、大学の第二外国語でやっただけで、ほとんど単語の羅列である。「r」の発音なんか気にしていたらしゃべれないし、名詞の男性形と女性形の区別がつかないので全部定冠詞は「le」。
ええのよ、これで。だって、日本に来ている外国人、ちゃんとした日本語しゃべってますか? しゃべってへんでしょう?

というわけでヴェズレー到着。本当に小さな街である。帰りの列車が五時間後にしかないので、それまでうろうろしなければならない。まず、サン・マリ・マデレーヌ寺院にゆく。ちょうど小高い丘のてっぺんにある。窓の少ない典型的なロマネスク寺院である。しかし、人間の姿形がまったくない。勝手にドアを開けて入ると、キリストの昇天10日後を描いたタンパン(正面上部にある半円形の飾り彫刻)が目に入るが、とっても暗い雰囲気だ。美術史をやっている人にとってみれば柱飾りの一つ一つが資料の宝庫なのだろうが、私の目的は「お骨」である。
祭壇に近づくと、地下礼拝室への階段があったので、もしや、と思い降りてみると、あった。そこに。マグダラのマリアの聖遺物、と記されたガラスの箱だ。
暗いので顔をひっつけるようにして見ると、六、七センチほどの小さく湾曲したお骨である。どうやら、肋骨の一部らしい。飴色に光って見える。湾曲度が高いのと、骨の細さから、女性のものであることは間違いないようだ。
しかし・・・ここには「ない」はずのマグダラのマリアの遺骨が、どうして存在するのだろうか? 即物的な答えは、十二世紀にヴェズレーが凋落した後、誰かが、どこかから遺骨を調達してきて祀ったということになる。聖人の遺骨を盗むことは「聖なる盗み」として文化的運動とされたらしいから(Patrick J Geary『FURUTA SACRA』Princeton University Press,1978)、これもその一例であろう。空諦房の室生山舎利盗掘事件をふと思い出す。
民衆たちはどういった思いでこれを拝んだのだろうか。「ない」はずのものを「ある」と信じることこそが、信仰であったのだろうか。このお骨は何か奇跡を起こしたのだろうか。お骨に問うてみても、何も答えない。
しつこく写真を撮り、寺院の裏のテラスと呼ばれる高台へ出る。今日も空が「濃い」ほどに青く、テラスから眺めるブルゴーニュの丘陵地帯は日本にはない風景である。ここからサンチャゴまでは遠いなあ(私は六年くらい前にサンチャゴ巡礼を、車でした。少しだけ巡礼道を歩いたが、いろんな年齢の巡礼さんがたくさん歩いており、蟻の熊野詣、という感じだった)。
用事がすんでしまったので、時間をもてあますが、電話やメールを気にしないでいる時間というのは貴重なものだ。私にとって旅行とは「孤独になりに行くこと」と等しい。普段からも一人が好きなのだが、異国にたった一人いる、というどうしようもない状態が一年にいっぺんくらいないと窒息してしまう。
丘を降り、ヴェズレーの観光案内所(ヨーロッパにはどんな田舎町でもこれがあるのだね)で地図をもらい、街中にあるロマン・ロランとジョルジュ・バタイユの住んでいた家を見る。街は死んだように静かだ。昼食をとろうとレストランを物色していると、駐車場で黒猫発見。パリ市内では野良猫や野良犬はすぐに「処分」されてしまうが、このへんでは自由らしい。猫の鳴き真似をすると寄ってくる。しばしおなかをなでたりして、猫語が世界共通であることを認識した。
こんなんでもうかってるんでしょうか、といいそうな閑散としたレストランで定食をとり、せっかくなのでヴェズレーの地ワインをいっぱいだけ頼むと、薄い赤で妙に石灰分を感じる味だった。
これからの時間、どうしようかと地図を見ると、ここから2キロほど離れたサン・ピエール村にゴシック期の教会があることがわかった。この村は九世紀に出来た古い中世の村で、今でもその雰囲気があるという。もちろん行ってみることにする。
古い道を抜けて国道に出ると、なぜかベンツのSクラスやBMWといった高級車がびゅんびゅん私を追い越してサン・ピエール村へ疾走してゆく。村についてその訳がわかった。ここにはミシュランで三つ星を得たレストラン「レスペランス」があるのだ。車はみな、その大きな門構えの店に吸い込まれてゆく。
村は中心に井戸があって、いかにも中世の村落といった感じである。教会には残念ながら何も(お骨は)なかった。村人は一人も歩いていない。うまく写真を撮れば「ロマンチックなフランスの片田舎」などと雑誌で特集でもされそうだが、非常にさびれた建物ばかり。村人はなにで生活の糧を得ているのか、心配になる。
村を一周して再びヴェズレーへ。4キロの歩きがまったくこたえない。私は日本にいる間、ものすごく不摂生な生活をしているようだ。外国へ行くと元気になるが、単に精神的なものだろう。喉が渇いたので小さなサロン・ド・テで紅茶。あとはタクシーのお迎えを待つばかりである。
帰りは、曜日の関係でセルミゼーユ駅からの列車はないので、少し離れた別の駅まで行く。着いた駅舎がまったく何の看板もない建物で、言われなければ駅には見えない。駅員さんに本当に列車がくるのか確認して、外へ出てみる。ほんとうになーんにもない。むこうの方で白い大きな牛たちが寝そべっているだけである(法華経の「大白牛」というのはこれくらい大きいのか、などと思う)。なんとなく草地にしゃがむと、足下に「いぬふぐり」に似た青い小さな花が咲いていた。「春が来ていたのだ」と思った。この一年、職場に慣れるため花に目をやる余裕もなかった自分を振り返る。「春、なんだなあ・・・」

この後、無事5分遅れの列車に乗り込んで、私の長い一日が終わったのである。三つめのお骨に出会えて満足な日であった。

明日はパリの中世美術館とギメ美術館を再訪する予定。続きはまた今度。
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